<本文为2024年樱桃忌特稿。>
2016年12月24日
雪は思ったほどひどくなかった。
「いらっしゃい。どちらまで?」
「五所川原の、えと、サンシャインルートまでお願いします。」
「市内のホテルですね、かしこまりました。いやー、大吹雪で大変でしたね。深夜便で無事に到着なんて、お客さんもなかなか運がいいね。」
「はあ…」
「今日イブだっけ。」
「え?」思いもつかなかった会話だ。そうとう馴れ馴れしい運転手さんのようだ。
「あー、ええ、仲間がいないんです。」聞きたがることがなんとなくわかってるから、辻褄が合わなさそうに聞こえたが一応そう答えた。しかも「仲間」って言った。
「友達もいないのです。」
「そうか、大変だね。」
案の定、伝わった。そしてこの運転手さんはもう完全に敬語をやめたみたい。「大変」は口癖なのかな。
あまり喋りたくないから、できるだけ何かを思い込んで相手の話が聞こえなかったフリをしようとしたが、現実はそんなに甘くなかった。
「まあ、俺から見れば青森ぜんぜん面白くないぜ。五所川原といい弘前といい、山と森しかない完全に古びた町なんだよ。」
意外だ。
「なぜそう思っていますか。」できるだけ喋らないと決めたけど、要らない好奇心が湧いてきた。
「なぜって、それほどのもんじゃなくてただの事実だろ。現地に来て実際に見れば誰でもわかる事実さ。だから、クリスマスを満喫するのならもっといいところがあるじゃないかなと思ってな。東京とか札幌とか」
わたくし、まさに札幌から来たのでございます。さすがに言えなかった。黙っている間、話が勝手に進んでいった。
「まあ、俺の勝手な推測だけど、お客さんもあれだろ」
「『あれ』というのは何のことですか。」
「あれだよあれ、きっとあの作家さんのためにこっちに来たんだろ。」
半分、いや、三分の一当はたったが、残りの三分の二はちょっと複雑。私はためらって口を開いた。
「それもありますけど、それだけではありません。わたし、逃げるために来たんです。」
「逃げる?何から」
そう、何から逃げたいんだろう。答えはすでに決まっているのに、今さら気軽にそれを口にするのはなんだか情けない気がする。
「『仲間』から逃げたいんです。」
「でもさっき仲間はいないんですって言ってたんだろ?」
「ええ。わたしの中では、あれは決して仲間ではありません。しかし今解釈に的確な言葉が必要なので一つ選ばないと話が成り立てません。つまり、強いて言えば『仲間』ですね。」
「なるほど。んで、その『仲間』から逃げたいのはどうしてだ?」
このおじさん、ますます馴れてきた。運転中なのに大丈夫だろうか。
「長くないが短くもない話ですけど」私は視線をちらりとハンドル側に移した。「かまいませんか。」
「おお、かまわないぜ。」
「その、一応私の身の安全にもかかっていますけど」
「大丈夫だって。これでも二十年ほどやってるから安心しろ。」
そんなに聞きたいのか。本当に物好きなおじさんだな。
青森の雪は思ったほどひどくなかった。札幌の人半分を埋めるほどの雪と比べて、まるで夜明けの前ひそかに冷たい大地に置いた霜のようだ。しかし今どき、窓越しの小雪が車のスピードで猛吹雪になった。
山と森しかない場所。私にとって絶好の冒険地。
「仲間」は嫌いだが、一期一会の話し相手は嫌いではない。むしろ後者のような仲良くしなくていい人種が好きだ。
「つまらない話ですが。」偽りの猛吹雪を見つめて、同じ世代から見れば断然に明るくない声、そして少々大人びた口ぶりで、私は語り始めた。
「ある人――Kと呼んでおきましょう。Kはこの世界のどこにでもいる極普通の人間です。ある日、Kは先輩から大事な、えと、書道部でいいか――大事な書道部を受け継ぎました。」
「雑だな。その書道部は今考えた設定だろ。」
「しかりです。プライバシーというものもありますので、どうぞご了承ください。書道部を受け継いで、Kは心の中で決めました。先輩を失望させたくない、力を尽くして書道部を賑やかにしよう。人数はそんなに多くはないが、元から部員もいるし、自分を含めて部員全員はずっと仲良くしてるクラスメートだし、日常管理の仕事も部活も、きっとすべてが順調になる。Kはそう思っていました。」
「結局そうはなれなかったか」
「ええ。しかし肝心なのは結末ではありません。そうですね、それはある日のことです。新学期早々、部活に必要なものを整えるK。その日同じクラスの部員たちにこうお願いしました。『みんなに協力して畳10枚を部活室に運んでいただきたいんだが、今日の午後1時、実験棟の前に集まってもらえませんか』と。入学から付き合ってきた仲のいい子たちだから、この仕事も朝飯前だと、Kはそう思っていました。でも、午後3時も過ぎて、誰も来てくれなかった。そしてKは10枚の畳を1人で五階の部活室に運んでいった。」
「畳一枚だけでももうけっこう重いだろう。1人で五階まで全部運ばせるなんてひどいな。大変だったよな。」
「ええ、本当に大変でした。でも階段の傾斜など借りて押したり引っ張ったり、なんとか成し遂げましたよ。」
「そのあとは?みんなとけんかでもしたのか、あのKは」
「ううん。最初は悲しくてちょっと怒っていたけど、事情を知っているKはすぐあることに気づきました。そして怖くて悔しくて、愚痴も怒りも出せませんでした。」
「事情って、どうせやつらはこっちも忙しんだ手伝いたくてもできないよとでも言ったんだろ。」
「勉強や日常生活はもう山々、しかもあの学校の規則と懲罰ルールは厳しいから、むしろ熱情を抱いて何かを自由にやるのは無理でしょう。だから、『部員たちはみんな忙しかった』、それは間違いなく事実でした。」
「それだとしてもさ」運転手さんの声からなんかイライラしてる感じがしている。「ありえないだろふつー。お願いしたんだろ?みんな友達だろ?仲良く付き合ってる人に頼まれて、どうして誰も来てくれなかったんだよ」
「これは、あなたの感想ですか。」
「感想って言われても癪に障るな。だって、それどう聴いても物語じゃなく本当のことだろ」
「まあ、半分は仰るとおりです。」
「だろ?だから俺は感想なんか言わない。さっきのはただひどいことに腹立っただけだ。」
「ありがとうございます。」
「なんで礼を言うんだよまったく。んで、そのKが気づいたことは何だ」
「そうですね。Kはあのとき気づきました--もし頼まれたのは自分だったら、きっと同じことをするのだろう。」
「…」
「そして怒りも悔しさも消えました。みんな同じだから、Kは誰も責められるべきではないと思っていた。」
「ありえない。理解できねえ。なんという屁理屈だ。」
「仕方ないでしょう。」
「でも不公平だろう。」
「それはそうですけど」
「責められるべきやつ、本当にいないかな。」
そちらも考え込んできたようだ。運転は大丈夫だあろうか。
まあ、わからなくても仕方がない。今の私もただ自分の中でひねているだけで、はっきりしている結論はどこにもない。この整えてもなくくだらない物語は他人に聞かせる価値も、どこにもない。
「申し訳ありません。やはりわたしも、今はわかりません。」悩んだ結果はこの一言だけ。タクシー代払って、降りる前に
「難しいですね、人間というものは」と言って振り返らずにホテルの温かく静かな橙色の空間に潜り込んだ。偽りの吹雪も化けの皮を現して、ひらひらと宙に舞いてる軽い霜に変わった。
翌日の朝6時35分、『走れ、メロス』を持って「走れ、メロス」に乗り、津軽鉄道をひたすらに走った。
外は余りにも寂しすぎた雪野風景。昨夜から夜明けまでの小雪はもう何時間前に止んでいたようだ。地べたに覆っている薄い白を見て、昨日と相変わらず「霜だ」という、あまり相応しくない感想が頭から湧いてきた。
目的地は芦野公園。列車から地面に飛び降りて、黒白混じりの公園にいるのはただ私一人。12月だから当然桜の欠片もない。見えるのは一面の黒い桜の木。
ピンク色は温かいもの、昔から私のなかでこういうような認識がある。故に、春が訪れたらここも、「霜」が吹雪のふりをするように温かい何かに化けるだろうと、なんとなくそう思っていた。
「責められるべきやつ、本当にいないかな。」
やさしい運転手さんの話が、この津軽大地の風とともに不意にこころの何処かを過っていった。
Kの物語の結末は肝心なところじゃない。
駅のすぐそばに一軒の喫茶店がある。赤い屋根をしている。
でも今はコーヒーなど楽しむ気分じゃない。マフラーをしっかり締めて、地図が示した路線にそって私は黒い木の間をくぐる。やっと辿りついたのはある作家さんの銅像の前だった。
「わたしには結局わからないよ、ばあさん。」
本と花と缶ビールを、ひっそりと銅像の前に置いた。
「こんなものが救いにでもなれるの?」
小説は全部読んだ。読み尽くしたんだ。でもまともな答えは何一つ見つかっていない。そもそもばあさんと私は、共通点のまったくない二人の人間だ。これも当然な結果だと、心のどこかでとっくに予想がついた。
ばあさんと違って、私は小説が好きではない。嫌いじゃないが、好きだとは言えない。小説というのは所詮「偽り」だ。空想からできたものなんだ。勿論、実在の人物や人生経験からできた小説もたくさんあるけど、その中には必ず「偽り」が存在してると思う。
昨夜の、私がやさしい運転手さんに語ったあのつまらない物語みたいに。
「アルコールの影響が消えたら酔いも覚める。小説を読むことで得た快感と救済感も同じじゃないかな。」
ちなみに目の前の作家さんは小説以外のやつもいろいろ書いてたらしい。ばあさんはその中で特に「小説」というジャンルに属してるものが気に入ったようだ。どうでもいいけど。
私にはわからない。理解できない。
「先月帰ってみたんだよ、うちのあばら家。あの時の。でさ、隣のアキちゃん、去年死んじゃったって。」私はいっそ銅像の前であぐらを組んで座った。銅像に対して銅像に聴かせるためでもない話を喋っていた。
「死因は貧乏による自殺。仕事もないし貯金もない、とうとう最低限の生活すら維持できなかったんだ。あいつ自身は頑張り屋さんだけど…わたしから見ればね。」
でもアキちゃんは死んだ。ばあさんの死は夏最後の花一輪なら、アキちゃんの死は嵐に耐えられなかった障子の紙一重。
「どうしてこの世の苦しみはこんなにあるのだろうね。」
ばあさんの苦しみは私には理解できないけど、アキちゃんの苦しみは誰でもわかると思う。貧乏。ごく簡単な二文字。でも人はそれで死ぬ。ばあさんはいつも「小説で救われたんだ」って言ったけど、小説ではアキちゃんが救われないと思う。私は人間の苦しみは比べられるべきじゃないとずっと思ってたけど、こんな時だけは、自分がどんなに愚かで浅ましいやつなんだと、うすうす気づいた。
苦しみの重ささえ人によって違うくらいに、この世界は不平等だ。
「まあいいや、とりあえず任務完了。ちゃんと届けたよ、ばあさん。」
ここまでだ。これ以上深く考えるのは性に合わない。
観光のために来たわけじゃないからこのまま帰ることにした。列車の座席で白い雪野を眺めながらぼんやりと、夢を見たようだ。小さい頃の夢。でも、たぶん列車の揺れか何かで夢は長く続かなかった。ふと目が覚めたら、ちっとも懐かしい感じもしない。田舎で飽きるほど送ったばあさんとの、四年間の生活のフラッシュバックだ。
「アキちゃんも、私も、そして君も。私たちの苦しみは決して無意味ではないのよ。」
ばあさんの声が今でも頭の中に残っている。
「『正義の味方』なんていいよ。強い人間になれなくていい。君は、弱い人間の味方になるのよ。」
うるさい。
「桜桃、食べる?」
イチゴやらサクランボやら、そんな甘っぽいやつ大嫌いだ。田舎も嫌い。あの灰色の四年間も嫌い。小説も――。
「小説は…」急になんだか泣き出したくなる。
小説は…
「好きじゃない…」もうとっくの昔から泣かないと決めたから、当然、涙なんか流さなかった。
小説は偽りだ。文学は虚像だ。虚像にすがりついても結局手にしたのは虚像が生み出した虚しさだけだ。300ページでも1000ページでも、アキちゃんみたいな人は救われない。救われるのはその虚像に相応しい苦しみを持ってる人間だけ。
「ほら、ハルちゃん、岩木山だよ。富士山みたいだろう。」
「ほんとだ。」
隣の席の声が聞こえた。どうやら親子みたいだ。私もその声につられて外を見ると、白くて青い岩木山が遠くの境界線に佇んでいた。そして列車の速度でたちまち視界から姿を消した。
山と森しかない場所。
ここにやってきた理由はもう一つある。
人生すべてのロマンチックを、ここで終わりにしようと思ってた。Kのつまらない物語を、ここで終わりにしようと思ってた。
「……」私は窓を開けて、財布から取り出した一枚のカードを窓から投げ飛ばした。大学のIDカードだ。氏名も写真もID番号もきちんと処理してあるから拾われても身分はバレない。
そしてここからは戦いだ。全うな人生なんてどうでもいい。真っ新で醜い姿でKがかつていたあの理不尽な世界と戦う。そう決めたんだ。
私は知りたい。この世のすべての苦しみを。そして寄り添いたい。
ばあさん、アキちゃん、そしてKのような子を理解するために。
「ねえねえ、どうして悲しい顔してるの?どこか痛い?」小さな娘が私の目の前に現れた。
「ハルちゃん、失礼ですよ。お姉さんに謝りなさい。」
「いえ、別に」
「う…ごめんなさい!桜桃あげるから怒らないでください…」娘はすぐに涙を浮かべる。
「いやだからべつに――」
桜桃は慌てて私の手の中に渡されて、娘の小さな姿が彼女にとって高くて大きすぎる席の中に沈んだ。
だから――
桜桃が大嫌いなのに。さっき娘の表情を思い、仕方なく口にした。
「まあ…悪くはないけど」